牧師のコラム
牧師ボイス 2025日5月4日 No.498
先日ある方から、水曜夜の祈祷会はどのようなことをしているのですか?との質問を受けたのでお答えしました。すると、「想像と違っていました、もっとお堅いイメージを持っていました。仕事の調整がつくときは参加したいです」との返答でした。なるほど、祈祷会の存在は知っていても、内容を知らない方が多いかもしれません。よって今回は平日の祈祷会の内容をお伝えします。
①水曜夜祈祷会(毎週水曜日20:00~21:15頃/3F礼拝堂)
6,7名が集い、講壇に向かって楕円に座ります。2,3曲賛美し、祈り、聖書を開きます。5月からコリント人への手紙第一を読み進めます。半章を輪読し、5分間静聴し、受け取ったことを分かち合います。そして、みことばと分かち合いから受け取った祈りを一斉に祈り、続いてとりなしの祈りです。先ず、教会の祈りの課題や日本や世界の祈りの課題を一斉に祈り、続いて順番に個人的な祈りの課題を挙げて皆で祈ります。最後に主の祈り」を共に祈って終了です。
②木曜祈祷会(毎週木曜日10:30~12:00/1F集会室)
4,5名が集い、円になって座ります。流れは水曜祈祷会と大体同じですが、第一週は横田がリードし、詩篇を分かち合っています。第二週は横田姉がリードし、BFP Japan のメッセージ動画を視聴してイスラエルのために祈ります。第三週はブルーリボンの祈り会(拉致問題解決のための祈り会)に合流、第四週と第五週は横田姉、または信徒の方が担当し、分かち合いと祈りをリードします。
③土曜早天祈祷会(毎週土曜日6:30~7:30/1F集会室)
2,3名が集い、賛美と祈りの後、デボーション誌『日々のみことば』からその日の聖書箇所を輪読し、15分程静聴します。そして各自受け取ったことを分かち合い、共に祈ります。
すべての祈祷会は皆さまを歓迎しています。共に退き、静まり、祈りましょう。
牧師ボイス 2025日4月27日 No.497
ルカ9章、主イエスは12弟子を神の国を宣べ伝え、病人を治すために遣わされました。「旅には何も持って行かないようにしなさい。杖も袋もパンも金もです。また下着も、それぞれ二枚持ってはいけません。どの家に入っても、そこにとどまり、そこから出かけなさい。人々があなたがたを受け入れないなら、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」(3-5)。とてもラディカル(過激、革新的)な指示です。せめて下着は二枚持っていきたいです。しかしこの指示にある本質を教えられました。主イエスから遣わされて行くなら生活の必要は備えられるのです。弟子たちは遣わされた地で神の国を宣べ伝え、病人を治すため、主イエスの御手と一つとなって手を伸ばします。人々はそのような弟子たちを家に泊め、下着まで用意してくれました。今日の私たちの職場でも同じです。私たちは遣わされた職場で神の国の価値観で仕事をし、主イエスの御手と一つになって仲間と共に働きます。結果、会社はあなたに十分な報酬を支払いたいと思い、仲間もあなたと協力をしたいと思うのです。興味深いのは、この記事の後に有名な「給食の奇蹟」が続きます(11-17)。主イエスのみもとに集まる男だけで5千人以上の人々は空腹を覚えていました。すると主は「五つのパンと二匹の魚」の小さなお弁当を手に取り、天を見上げ、神をほめたたえてそれを裂き、群衆に配るように弟子たちに与えます。弟子たちはそれを分かち合い、結果、多くの人を満たすことができました。弟子たちは、主から遣わされて人々に仕えた結果、生活は支えられ、主イエスに従って五つパンと二匹の魚を分かち合った結果、多くの人が満たされました。弟子たちの中心には何があるか? それは主イエスの心です。弟子たちは主イエスにコミットしました。私はどれほど主イエスにコミットしているか? 献身し、取り組んでいるか? あなたはどうですか?
牧師ボイス 2025日4月20日 No.496
主イエスは群衆に「四つの種」(道端に落ちた種、岩の上に落ちた種、茨の中に落ちた種、良い地に落ちた種)のたとえの話をされながら大声で言われました。「聞く耳のある者は聞きなさい。」(ルカ8:8)。ただの「聞く者」ではありません、「聞く耳のある者」です。主イエスは聞く耳のある者に届くように大声で言われました。聞く耳のある者を求めておられます。主は言われます。「また別の種は良い地に落ち、生長して百倍の実を結んだ。」(8)。「しかし、良い地におちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。」(15)。「良い地」とは「聞く耳のある者」のことなのです。先日「成功する会社の秘訣」という見出しの記事を読みました。どのような会社が成功するのか? それは「顧客のニーズをとことん聞く会社」でした。視点を変え、質問を変え、顧客のニーズを捉えていくことを諦めない会社と社員、確かに、そのような会社に私たちの心は留まり、信頼し、契約します。牧師の仕事の中心はみことばを取り次ぐ説教ですが、その秘訣は「語る」ことより「聞く」ことです。どれだけ心と力を尽くしてみことばに聞くか、人と社会に聞く耳を持つか。夫婦関係、親子関係も然りです。妻の声にどれだけ聞く耳を持つか。時に私は子どもたちを叱りますが、息子は私が叱ったことに不満を持つときがあります。息子はその不満を私にぶつけて来ます。無理なときは母親(妻)に訴え、妻経由で私に届きます。私は、息子の不満に聞く耳を持つかどうか、それが決勝点です。家族だとついつい気を遣わず強く言ってしまいがちです。忙しいときなどはなおさらです。しかしそのときこそ私は感情を抑え、プライドを捨て、息子と顔と顔を合わせ、息子の訴えに聞く耳を持つのです。そして私に過ちがあったら謝ります。すると息子の顔はフワッと明るくなります。聞く耳のある者は、百倍の実を結ぶのです。
牧師ボイス 2025日4月13日 No.495
今年も幸いな霊修会でした。集会最後の皆さんの証に大変恵まれました。今年のテーマは「信仰によって一歩踏み出し、主の業を見てゆこう」で、チャレンジは「一歩踏み出す」、大切なのは「信仰によって」。しかし「信仰」の前に、私たち一人ひとりにねんごろに臨まれる主イエスがおられることをより一層教えられました。ある参加者は、主イエスがペテロに言われたみことばから(マタイ16:17)、「信仰も賜物」と分かち合ってくださいました。本当にその通りです。神のあわれみに対する私たちの「ふさわしい」応答は自分のからだをささげる礼拝ですが(ローマ12:1)、その前に、主イエスが私たち一人ひとりに「ふさわしく」臨まれ、語りかけておられるのです。よって一人ひとりの主への応答もそれぞれであり、多様性があり、豊かです。霊修会最後の恵みの分かち合いも同調圧力はありません。一様にチャレンジをする必要もありません。そこにはベテランの信仰者から、洗礼を受けて間もない方、久しぶりに来られた求道者の方もおられます。年代も職業も性格も様々です。その中でそれぞれの恵みの証に耳を傾け、感動し、主を賛美します。私は教会共同体の素晴らしさと魅力に浸りました。牧師という仕事はなんと幸いか、とも思いました。その日の礼拝説教のみことばは、主イエスが弟子たちと取税人や罪人たちと一緒に食事をされ、主はその食卓を「婚礼の宴」と言われました(マタイ9:14-17)。私たち教会の交わりは、花婿を中心とする喜びの婚宴です。その宴には多くの人が東からも西からも来て一緒に食卓に着きます(マタイ8:11)。この交わりが教会であり、この交わりが福音宣教です。「万軍の【主】はこう言われる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、一人のユダヤ人の裾を固くつかんで言う。『私たちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたから。』」(ゼカリヤ8:18-23)。
牧師ボイス 2025日4月6日 No.494
前回はローマ11章後半の「神のあわれみ」について書きました。11章は次のみことばで結びます。「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますよに。アーメン。」(11:36)。そして12章に入り、有名な「礼拝」についての教えです。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12:1,2)。1-11章は「福音についての教え」、12-16章はその実践「教会生活についての教え」で、その繋ぎ目が「礼拝」です。私たちの礼拝の動機、動力は「神のあわれみによって」。神のあわれみとは何でしょう? その極み、頂がキリストの十字架と復活です。そしてそれに対する私たちのふさわしい応答が「礼拝」なのです。「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至る」のだから、私たちは、自分のからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げます。「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」(2)。「この世と調子を合わせる」とは「自分の力で」ということです。神のあわれみが隠された世界では自分の力や自己実現が中心です。
しかし、私たちは「神のあわれみ」に自らを合わせ、献げます。毎週、毎朝、困難なときこそ。書籍『センターチャーチ』の中で、著者ティモシー・ケラー牧師はこう述べています。「ローマ12:1,2の教えは、通常、個人的な献身への招きとして解釈されるが、実際は私たちが自律的個人としての生活をやめ、共同のからだに献身する招きである。」。なるほど、神のあわれみに対する私たちのふさわしい礼拝とは、教会という新しい共同体、社会への献身なのです。
牧師ボイス 2025日3月30日 No.493
ローマ11章後半は「神のあわれみ」を教えます。「あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼ら(イスラエル)の不従順のゆえに、あわれみを受けています。それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。」(30-32)。神さまはすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のうちに閉じ込めたというのです。使徒パウロはその直後に「ああ、神の知恵と知識の富はなんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。」(33)と驚嘆します。本当にその通りです。しかしよくよく考えると、神のあわれみがなければ私たちの救いはありません。ある全盲の牧師が言っておられました。
「私はだれかに助けてもらわなければ一歩も歩くことができません。手を差し伸べてくれる方に信頼しなければ生きていけません。たとえその人が悪い人であっても、なお信頼しなければ、私は一歩も進むことができません。」 柔和に輝くお顔と声が私の心に焼き付いています。ヨハネ9章、主イエスは盲目の人を癒され、言われました。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」(39-41)。私たちは「見える」と声を上げます。「私たちも盲目なのですか」と腹を立てます。「見える」という罪を悔い改めます。神のあわれみ、主の十字架と復活を、仰ぎ見ます。
牧師ボイス 2025日3月23日 No.492
10年後の教会はどうなっているのだろう? いよいよ予測不能な時代になりました。しかし、ローマ11章から将来が見えました。「イスラエルの救い」について告げている章ですが、今回、「神の恵み」について教えられました。先ず使徒パウロは、預言者エリヤがイスラエルを神に訴えている旧約聖書の記事を引用して「神の恵み」を教えます。「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを狙っています。」しかし、神が彼に告げられたことは何だったでしょうか。「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくなります。」(26)。神の恵みの選びにより「残された者たち」がいるのです。「それでは尋ねますが、彼らがつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。」(11)。神の恵みにより、つまずきからかえって救いは広がります。「もし彼らの捨てられることが世界の和解となるなら、彼らが受け入れられることは、死者の中からのいのちでなくて何でしょうか。」(15)。神の恵みは「死者の中からのいのち」です。そして「枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けている~」(17)。10年後も、神の恵みにより、折られた枝の間に接ぎ木がされていくのです。しかし、最後にパウロは釘を刺します。「あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。」(22)。
牧師ボイス 2025日3月16日 No.491
ルカ1章、主の神殿で仕える祭司ゼカリヤと妻エリサベツは、神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていました。しかし二人には痛みがありました。彼らには長い間子がいません。二人ともすでに年をとっていました。神の前に正しい人であっても痛みがあります。しかしその痛みには深い神のみ旨がありました。キリストの到来のために民を整えるバプテスマのヨハネの誕生です。ただその時が来るまで、ゼカリヤとエリサベツは長い間待たなければなりませんでした。ある日、ゼカリヤは主の神殿の香をたく役目となり神殿に入ります。すると香の祭壇の右に主の使いが立ち、「あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。」と告げました。ゼカリヤは取り乱し、恐怖に襲われます。「その子はあなたにとって、溢れるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ、イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。…」 しかし、信じられません。するとゼカリヤは口がきけなくなり、話せなくなりました。神殿から出て来ても人々に合図をするだけで口がきけません。もどかしかったことでしょう。ゼカリヤは話そうとするのを止め、口をつぐみました。沈黙の中で何を思ったことでしょう。口がきけなくなったことにより、内側に変化が起こりました。神のみ旨の成就のためにゼカリヤの霊性は練られ、口がきけなくなったことにより、ゼカリヤは神のみ旨と一つにされました。私たちの人生にも痛みがあります。しかし振り返ってみると、その痛みに深い神のみ旨がありました。痛み(試練)は人生の新しいステージを開く扉です。また、人生には口をつぐむときがあります。しかしそれにより霊性は練られ、神のみ旨と一つとされました。あなたはどうでしょうか?
牧師ボイス 2025日3月9日 No.490
ルカ2章、マリアとヨセフは幼子イエスを主に献げるためにエルサレムに行くと、シメオンという老人がイエスを迎えました。「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。そして、主のキリストを見るまでは決して死を見ることがないと、聖霊によって告げられていた。」(25,26)。イスラエルは苦難の中にありました。シメオンはイスラエルが慰められることを待ち望み、正しい人、敬虔な人として、主の約束に立って生きてきました。そして遂に幼子イエスを腕に抱きます。「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光を。御民イスラエルを。」(29-32)。するとそこにアンナという女預言者が近寄って来ました。「この人は非常に年をとっていた。処女の時代の後、七年間夫とともに暮らしたが、やもめとなり、八十四歳になっていた。彼女は宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えていた。」(36,37)。アンナは結婚して七年で夫に先立たれるという苦しみを通りました。そして彼女は宮を離れず、誠実に、敬虔に、神に仕えてきました。「ちょうどそのとき彼女も近寄って来て、神に感謝をささげ、エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人に、この幼子のことを語った。」(38)。マリアとヨセフは、シメオンとアンナにどんなに励まされたでしょうか。また、二人によって幼子イエスは人々にどんなに証されたでしょうか。シメオンとアンナはどんな人ですか? そう、筋金入りの老信徒たちです。そして教えられます。神さまはどの時代にも「筋金入りの老信徒たち」を備えてくださっている。練馬教会も然りです。私は筋金入りの老信徒方に支えられてきました。筋金入りの老信徒方は、私たちに深く、いぶし銀に、キリストを証してくださっています。感謝です。
牧師ボイス 2025日3月2日 No.489
ヨシュア記後半は、征服したカナンの土地のイスラエル12部族への分割です。その仕事は以下のことばで締めくくられます。「これらは祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、そしてイスラエルの諸部族の一族のかしらたちが、シロにおいて会見の天幕の入り口、すなわち【主】の前で、くじによって割り当てた相続地である。彼らは地の割り当てを終えた。」(19:51)。相続地の広さは部族の大きさに比例しましたが、その割り当ては、主の前で、くじによって決められました。くじ引きです。ドキドキですが、「選択」でなく、「宣託」ということです。カナンの地は行政的に分割されたのではなく、主のみ旨に従って分割されたということです。はたして、この分割は住人にどのような変化をもたらしたでしょうか? 先日、岩手県大船渡市で教会開拓に従事する小手川知行&裕美宣教師夫妻が言っていました。「もし大船渡への単なる移住であったならとっくのとうに撤退している。しかし宣教に来ているので楽しく生活できている」 まさにそういうことです。田舎暮らしに憧れて都会から田舎に移住しても数年で撤退してしまう人が多いと聞きますが、閉鎖的な世界に新参者が入っていくのは難しいのでしょう。兎に角、単なる移住か、神から遣わされたのか、その認識の違いによって見える風景は大きく変わるのです。私も神学校卒業後は北海道で牧会すると思っていました。帯広の教会に属していたので。しかし2年間練馬教会で実習をさせていただき、小笠原先生が声をかけてくださり、東京には住みたくないと思っていたのですが、東京の江古田に住むことになりました。しかし3ヶ月後にはI love Tokyoに変わっていました。主が私を日本の首都東京に遣わされました。あなたの住んでいる場所、職場は「主の前のくじ引き」で決まりました。主があなたをそこに遣わされたのなら、そこにはどのような風
景が見えますか? あなたは何をしていきますか?
牧師ボイス 2025日2月23日 No.487
ヨシュア記の光り輝く章の一つは14章です。「光り輝く老戦士」と言った方が良いでしょう。そう、ケナズ人エフンネの子カレブです。カナン征服の戦いは終わり土地を分割する段階に入りました。記されてはいませんが、その作業の中であれこれ比較して「あっちの方が大きい、こっちは小さい」と不満も出たのではないでしょうか。しかしカレブはヨシュアの前に進み出ます。「【主】がカデシュ・バルネアで、私とあなたについて神の人モーセに話されたことを、あなたはよくご存じのはずです。【主】のしもべモーセがこの地を偵察させるために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。私は自分の心にあるとおりを彼に報告しました。私とともに上って行った私の兄弟たちは民の心をくじきました。しかし私は、私の神、【主】に従い通しました。その日、モーセは誓いました。『あなたの足が踏む地は必ず、永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが私の神、【主】に従い通したからである。』ご覧ください。イスラエルが荒野を歩んでいたときに、【主】がこのことばをモーセに語って以来四十五年、【主】は語られたとおりに私を生かしてくださいました。ご覧ください。今日、私は八十五歳です。モーセが私を遣わした日と同様に、今も私は壮健です。私の今の力はあの時の力と変わらず、戦争にも日常の出入りにも耐えうるものです。今、【主】があの日に語られたこの山地を、私に与えてください。そこにアナク人がいて城壁のある大きな町々があることは、あの日あなたも聞いていることです。しかし【主】が私とともにいてくだヨシュアされば、【主】が約束されたように、私は彼らを追い払うことができます。」」(6-12)。カレブは主に従い通しました。40年間の 荒野放浪とカナン征服の戦いを。そして85歳の今も壮健、カレブはなお約束のみことばに立ち、戦い勝ち取ると進み出ま す。昔も今も変わらないカレブ、私もかくありたいです。つまり私は、今、どう生きるのか? です
牧師ボイス 2025日2月16日 No.486
ヨシュア記11章は、カナン北部のハツォルとその同盟国との戦いから始まります。彼らは海辺の砂のような兵と馬と戦車でイスラエルに立ち向かいます。ヨシュアは主から戦法を教えられながら、馬の足の筋を切り、戦車を火で焼き、懸命に戦いました。「【主】がそのしもべモーセに命じられたとおりに、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりに行った。【主】がモーセに命じられたすべてのことばを、彼は一言も省かなかった。ヨシュアはこの全地、すなわち、山地、ネゲブの全地域、ゴシェンの全土、シェフェラ、アラバ、イスラエルの山地とそのシェフェラを奪い取った。」(15,16)。ヨシュアは主が命じられたとおりに行い、一言も省きませんでした。そしてすべての地を奪い取りました。自分で小さくしたり、狭めたりしません。ヨシュアはさらに戦い続けます。印象深いことが記されています。「ギブオンの住民であるヒビ人以外に、イスラエルの子らと和を講じた町は一つもなかった。イスラエルの子らは戦って、すべてを奪い取った。彼らの心を頑なにし、イスラエルに立ち向かって戦わせたのは、【主】から出たことであった。」(19,20)。イスラエルが戦い続けたのは、イスラエルと和を講じる町が一つもなかったから、征服地を拡大できたのは、彼らが頑なであったから、さらには、彼らの心を頑なにしたのは、【主】から出たことでした。今日、私たち教会は血肉の戦いでなく、暗闇の世界の支配者たち、悪霊と戦い、福音を宣べ伝え、世界宣教に歩みます。時にその戦いは「頑なな心」と対峙します。「頑なさ」が私たちに立ち向かってきます。しかしその頑なさは、逆に、宣教の前進と拡大のために、主なる神から出たことだと言えるのです。頑なさにより、主のみ旨の逆転が起こります。モーセに対峙したエジプトのファラオもそうでした。私たちは頑なさに怯むのではなく、そこに私への主のみ旨あり、逆転の機会であると、見ていこうではありませんか。
牧師ボイス 2025日2月9日 No.485
ヨシュア記8章は、アイとの戦いで敗北して意気消沈するヨシュアのその後が記されています。私たちもときに敗北(失敗)します。しかしその敗北がその後の益となるかどうか、ここから学ぶことできます。「【主】はヨシュアに言われた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民をすべて率い、立ってアイに攻め上れ。見よ、わたしはアイの王と、その民、その町、その地をあなたの手に与えた。あなたがエリコとその王にしたとおりに、アイとその王にもせよ。その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい。あなたは町の裏手に伏兵を置け。」」(1,2)。主なる神は意気消沈するヨシュアに言われました。ヨシュアも意気消沈しながらも主の御前に出て、みことばに耳を傾けました。先ずは、やはり、ここからです。そしてヨシュアは自分の側から主の側に転換しました。私たちも意気消沈すると、うな垂れて自分と自分の世界ばかりを見てしまいます。しかしみことばにより「主の側」に立ちます。自分に立ってはいけません。そして、主がヨシュアに命じたリベンジは、「町の裏に伏兵を置く」という戦法でした。勝利は伏兵に任せて、ヨシュアは戦うのではなく、おびき出して逃げます。対立するのではなく退きます。謙ります。実際は簡単なことではありません、敗北した後は特に。ヨシュアはなぜできたのか? この戦いは主の戦いだからです。みことばにより、自分に立たず、主の側に立ち、主の導きに委ねます。その後には伏兵により見事に勝利する様子が記されています。ポイントは「伏兵を置く」ことです。一人で戦ってはいけません。主なる神はあなたに伏兵を備えてくださっています。あなたは伏兵により勝利します。キリストのからだ(教会共同体)で勝利します。ヨシュアたちはアイの町から王と兵が出て来るのを待ちました。ねじ伏せるのではなく、出て来るまで、神の時を待ちます。こうして敗北は益となりました。
牧師ボイス 2025日2月2日 No.484
米国第47代大統領にドナルド・トランプ氏が就任しましたが、一つの報道に目が留まりました。就任を記念する伝統行事の一つとしてワシントン大聖堂で行われた礼拝でのマリアン・エドガー・バディ主教の説教です。記事を引用します。『バディ主教は「大統領閣下、どうか慈悲をお与えください」と静かに語り、米国全体で「恐怖」が感じられると述べた。主教は「民主党、共和党、無所属の家族には、性的少数者の子どもたちがいる」と語った。また「米国の農場で収穫し、オフィスビルを清掃し、養鶏場や食肉加工場で働き、私たちがレストランで食事をした後に皿を洗い、病院で夜勤をする人々は、市民権や適切な書類を持っていないかもしれない」「しかし、移民の大多数は犯罪者ではない」と述べた。最前列に座っていたトランプ氏は仏頂面で、バディ主教を見返したり、目をそらしたりしていた。トランプ氏の家族とバンス副大統領もこの説教に驚きと不快感を示していた。後に記者から反応を尋ねられたトランプ氏は、「良い礼拝だとは思わなかった」「もっとうまくできたはずだ」と述べた。』(AFPBB Newsより)。礼拝の映像も興味深かったです。トランプ大統領夫妻とバンス副大統両夫妻が最前列に座ります。しかし参加者全員が同じ木製の長椅子です。主教は見上げる高さの説教壇からみことばを取り次ぎます。忖度はありません。最後にこう語りました。「私たちの神は、私たちがよそ者に慈しみを向けるべきであると教えています。なぜなら、かつて私たちは皆、この土地ではよそ者だったからです。」 私はこの礼拝になお保持されるアメリカの良さを見ました。大統領就任記念礼拝でこのような説教が可能なのです。説教に対して大統領がメディアに普通に苦言しているのも健全に思います(主教を弾圧してはなりません)。キリスト教界ではこの説教に対して論争が起きているようですが、兎に角、教会は政治を超えて神のことばを取り次ぐ共同体です。私たちはトランプ大統領のために祈ります。
牧師ボイス 2025日1月26日 No.483
ヨシュア記6章はエリコの戦いです。主なる神はヨシュア率いる武装したイスラエルの民に命じました。エリコの城壁の周りを、契約の箱を先頭にして角笛を吹き鳴らしながら毎日1周し、7日目は7周せよ。目に留まったのはヨシュアの民への命令です。「あなたがたはときの声をあげてはならない。声を聞かせてはならない。口からことばを出してはならない。『ときの声をあげよ』と私が言うその日に、ときの声をあげよ。」(10)。どっちかというと私はときの声をあげるタイプです。熱くなり、感動屋で、同時にパフォーマンスをしやすいです。戦勝を目指し武装して城壁を周っているのですから、ましてや城壁の上にエリコの兵士らを見かけたりしたものなら、睨みつけてウォ~!と叫んでしまいます。しかし、命じられるまではときの声をあげてはならないのです。さらにヨシュアは民に命じます。「あなたがたは聖絶のものに手を出すな。あなたがた自身が聖絶されないようにするため、すなわち、聖絶の物の一部を取ってイスラエルの宿営を聖絶の物とし、これにわざわいをもたらさないようにするためである。」(18)。これも、どっちかというと私は聖絶のものに手を出してしまうタイプです。ウォ~!と調子に乗って。リーダーシップは影響力であり、パフォーマンスやプレゼンテーション力は必要です。しかし牧師の最大の影響力は、主と主のみことばに誠実に従っていく姿勢です。変にパフォーマンスをしなくてよいし、盛り上げようともしなくてよいし、調子に乗ることに気をつけなければなりません。主イエスは弟子たちに言われました。「同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:10)。このいぶし銀の発言は、主の前にひざまずき、みことばに徹し、みことばに安息する、誠実なしもべのみ述べることができます。私もかくありたいと思いました。
牧師ボイス 2025日1月19日 No.482
「あなたがたの神、【主】の契約の箱を見、さらにレビ人の祭司たちがそれを担いでいるのを見たら、自分のいる場所を出発して、その後を進みなさい。あなたがたが行くべき道を知るためである。あなたがたは今まで、この道を通ったことがないからだ。ただし、あなたがたと箱の間に二千キュビトほどの距離をおけ。箱に近づいてはならない。」(ヨシュア3:3,4)。出エジプト荒野の40年を終え、いよいよ約束の地カナンに入る前のヨシュアのことばです。これは2025年が始まった私たちへのみことばでもあります。今まで通ったことのない道、あなたがたが行くべき道を知るために、先頭は「あなたがたの神、【主】の契約の箱」(主なる神の臨在)です。契約の箱と私たちの間には二千キュビトほどの距離をおかなければなりません。それ以上近づいてはならないし、離れてもなりません、ちょうどいいあんばいです。二千キュビトは約900m。900m先を進む契約の箱を想像すると、それは「従う」と同時に「見る」要素が大きいです。目の前には約束の地が広がり、そのただ中を契約の箱が、一筋の道となって進みます。広大な占領すべき地の中で、ここを進むのだと確認して進むのです。「見る」とは、第一に、聖書のみことばから「神さまはどのようなお方か?」を受け取ることです。先ず、神の御手ではなく、御顔を仰ぎ見ましょう。第二に、「見る」とは、神の約束を見つめることです。聖書は「律法の書」ではなく「契約の書」です。私たちの前には神の契約が置かれています。私たちがするのではなく、「わたしがする」と主は約束しておられます。私たちは主なる神の約束を見つめ、約束に安息し、約束を力として、前進します。第三に、「見る」とは、バッターが打ったボールとその軌道を見つめ、落下地点に行ってキャッチすることです。柔軟なフットワークで主の御心に自らを合わせていきましょう。立ち止まり、深呼吸し、週の初めに主を礼拝し、二千キュビト先を進まれる【主】を見つめる一年でありたいと思います。
牧師ボイス 2025年1月12日 No.481
「見よ、その時代が来る。―神である主のことば― そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことの飢饉である。彼らは海から海へと、北から東へとさまよい歩く。しかし、それを見出すことはない。」(アモス8:11,12)。アモス書は、預言者アモスにより、北イスラエルへの神のさばきが告げられている書です。彼らは、弱い者と貧しい者たちを踏みつけ利得を貪ります。その根源は偶像礼拝です。主なる神はそのようなイスラエルを見過ごされません。イスラエルをさばく「その日」を宣告し、かくして、アッシリア帝国の侵攻により実現しました。その日、主は太陽を沈ませ、白昼に地を暗くします(8:9)。アモス書は、現在に生きる私たちへ神のメッセージです。どんなに自分勝手に生きていたとしても、地が暗くなったら生きていけません。さらには、上記のみことばの通り、神のことばが止んだら、人は生きていけないのです。アモス書の最後には一筋の希望が告げられていますが、それはダビデの子孫を通してのイスラエルの回復です。そこにはすべての国々から民が集められます(9:11-15)。言うまでもなく、それはイエス・キリストとそのからだなる教会のことです。今日、神のことばは止んでいません。今年も聖書は世界のベストセラーです。それはキリストの十字架と復活から流れ出る、神のあわれみと恵みです。私はみことばを取り次ぐ者として、その使命を改めて確認しました。説教をすることは簡単ではありません。しかし、常にみことばに近くあれることは特権であり恵みです。今年も、主のみことばを取り次ぐことと、その研鑽に努めてまいります。すべての人は、本質的に、水に渇いているのではなく、神のことばに渇いています。みことばを求めてさまよい歩いています。今は回復の時、宣教の時です。今年も、私たち教
会は、みことばの前に静まり、みことばに聞き、みことばを宣べ伝えていきましょう。
牧師ボイス 2025年1月5日 No.480
明けましておめでとうございます。2025年がはじまりました。今年はどのような年になるでしょうか。神さまに期待し、幸いな2025年を築いていきたいです。その土台となるみことばが与えられました。「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。」(ローマ8:1,2)。新しい発見がありました。前章7章では「わたしが自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。」(7:20,21)と、パウロは「罪の原理」を述べましたが、8章では、それと対比、対抗して、「御霊の原理」を告げています。7章では罪、8章では御霊、その中心はキリストです。私のうちには自分でしたくないことをしてしまう罪が住んでいますが、今や、私のうちには御霊(聖霊)が住んでおられ、御霊は私たちを罪と死の律法から解放しました。「ああ、不思議に、私は神に喜ばれることができるようになってきた。それはもはや私でなく、私のうちに住んでおられる御霊です。」と告白し、証する世界が私たちの前に開かれたのです。教父アウグスティヌスは言います。「走れ、働けと、律法は命じる。だが私には、足も手も与えられていない。しかし福音は、素晴らしい知らせをもたらす。それは私に飛べと命じ、そして翼を与えてくれる。」 それゆえ、私たちは2025年も、主なる神さまに大いに期待し、求めます。幸いな一年を築いていくことができます。「肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊
に属することを考えます。肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。」(5,6)。キリストのからだなる教会の中で、教会と共に、御霊に属することをもっぱら考える2025年でありましょう。